タイガーバームの歴史

1969年以前
小さな瓶から始まる伝説

タイガーバームの誕生は19世紀に遡ります。

タイガーバームを世に送り出すことになるハウ(胡文虎)とパー(胡文豹)の兄弟は、ビルマ(今日のミャンマー)のラングーン(現在のヤンゴン)で誕生しました。

兄弟の父である胡子欽は漢方医の息子であり、1800年代に富を求め福健省厦門市を離れ、ラングーンに移りました。ラングーンでは自ら漢方医の店、薬局「永安堂」を開き、新生活を始めました。

ハウ(文虎)”Gentle tiger” とパー(文豹)”Gentle leopard”

文虎は1882年に生まれ、中国で教育を受け、一方、1888年に生まれた弟の文豹は、当時イギリスの植民地であったビルマで英国式の教育を受けました。そして、胡子欽亡き後は文豹が家業を継ぎましたが、家業の責任の重さに耐えかね、中国に住む兄を呼んで経営を継いでほしいと要請しました。

「私が西洋医学を幅広く学ぶので、兄さんは漢方薬を処方してください。そうすれば患者さんをもれなく治療でき、患者さん自身に西洋医学か東洋医学か選んでいただくことができます。もちろん我々は治療費を得ることができます。」と文豹は文虎に伝えました。

この賢明な提案をもとに、兄弟は小さな瓶に入った万能な軟膏を開発し、富と名声を得るまでになったのです。

タイガーバーム製法の起源

タイガーバーム製法の起源は、中国の帝政時代、皇帝たちが激務のストレスによる疼痛の緩和を求めたことにさかのぼります。兄弟の父、胡子欽が古代の製法に息吹を吹き込んでいなければ、この塗り薬は皇帝たちと共に息絶えていたかもしれません。

父親の製法に改善を重ね、兄弟は母親の台所で調合を行いました。文豹「穏やかな豹」はこうした苦労を重ね、文虎「社交的な虎」は事業に勤しみました。やがて二人は、すべての症状に効くといわれる軟膏「萬金油」の開発に成功しました。兄弟の薬局に訪れる人々は、必ずその黄金の瓶を手にして帰りました。名前通り「虎」の勘を活かして、文虎は中国の薬局一店一店に、軟膏の在庫を置いてもらうよう交渉しました。

文虎、マレー半島とシンガポールへ進出

文虎の次の狙いは商標取得であり、1909年文虎自身の名を冠した「タイガーバーム」が誕生しました。1920年には、胡文虎は40歳足らずでヤンゴン華僑の長者番付1位となりました。文虎はリスクを恐れず、マレー半島やシンガポールに進出しました。商業の街として賑わうマレーの街やシンガポールの港を前に、文虎は胸が高鳴り、頭がクラクラするようでした。そしてシンガポールの紙幣を透かして見ると、咆哮する虎が見えました。それが決め手となったのです。

虎の「王」は、1926年、シンガポールに移住しました。薬局「永安堂」はシンガポール港の最も賑わう地に移され、ヤンゴンの工場の10倍の生産能力を持つ大型の新工場が開設されました。文虎はマレーにも定期的に通い、移動時には、正面が虎の顔、クラクションを鳴らすと虎が吠えたような音がする、オリジナルのクルマを走らせたそうです。小さな村の住人たちがクルマを囲んだ際には、タイガーバームや姉妹品の試供品を配り、集客に繋げました。

誇り高き伝統

この賢明な提案をもとに、兄弟は小さな瓶に入った万能な軟膏を開発し、富と名声を得るまでになったのです。

次世代への継承

マレーや香港、インドネシアのバタビア(現在のジャカルタ)、中国やタイの各都市で

工場や販売網を確立し、富や名声も広く知られるようになった胡文虎は、精力的に事業の多角化を行いました。

胡文豹は1944年にビルマで死去し、胡文虎は1954年米国ボストンで大手術を受け、香港へ帰る途中、心臓発作を起こし享年72歳で死去しました。その後、胡文豹の息子、胡清才が家業を継ぎ、1969年、事業の大部分をシンガポールとマレーシアで上場する会社「虎豹兄弟国際有限公司(Haw Par Brothers International Limited)」に移譲しました。

*会社名は1997年にHaw Par Corporation Limitedに改名しました。

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